統一教会に一体何が起こっているのか? 著者は、統一教会分裂の現象を長年に亘って観察し、歴史的研究方法によって研究してきた。この本は、膨大な統一教会の一次資料に基づき、統一教会分裂の原因から過程、結果を詳細に記述し、統一教会の未来を見ている。
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4) 文亨進の登場とアイデンティティの歪曲-2<自分の宗教性に頼り統一教会の伝統を歪曲>
筆者の関心を引く部分は、文亨進が天福式に聖酒を活用している点である。血統復帰の為の祝福結婚式や創教者の特別な指示で行われた聖酒式を除いて統一教会の儀礼で聖酒を使うことはほとんどなかった。天福式で絶対者の血統を象徴し絶対的価値として信奉される聖酒を日常儀礼に使うことで、天福式を統一教会の歴史的で公式的な儀礼に編入させようとした文亨進の意図を窺い知ることができる。
心霊治癒礼拝は、最初から最後まで太鼓を打ちながら文亨進が啓示によって作った「真の父母様億万歳」を呪文を覚えるように繰り返し呟き続けて「振動とパワー」を真の父母に送る儀式である。「真の父母様億万歳」讃頌を持続する理由は、「真の父母は神様の創造目的であり宇宙の動きであり、宇宙が進んでいく目的であるだけでなく、神様が向かう全ての動きの目的」だからである[1]。したがって「真の父母は宇宙の振動とパワーの志向性であり、振動とパワーの原因であり結果でもあり、真の父母に集中してその名前を繰り返すことによって振動とパワーが一体になり、結局、真の父母と一体を成すことができ、このような過程で聖霊が治癒される体験をし、天運と共にすることができる」というのである。
ところが心霊治癒礼拝は、文亨進の天福宮を除いて各地域の統一教会ではほとんど行われなかったものと見られる。一部の参席者は肯定的な反応を見せたが、統一教会の伝統と普通の統一教会人の情緒に照らしてみると、文亨進の心霊治癒礼拝は受け入れがたい儀礼だったからである。恐らくこうした理由から、創教者の聖和直後に文亨進が統一教会の現場から去って渡米すると同時に、心霊治癒礼拝も現場から消えた。
第1回天福祝祭は2011年陰暦1月1日、第44回「真の神様の日」を皮切りに創教者の誕生日である陰暦1月6日まで6日間行われ、第2回天福祝祭は2012年に第1回と同じ期間に開催された。しかし、創教者が他界し、文亨進が統一教会の中心から遠ざかると同時に、彼の痕跡は削除された。天福祝祭もそれ以降は開催されなかった。天福祝祭は文亨進が追求した宗教的アイデンティティが如実に現われた行事であった。仏教、儒教、カトリックの人士が同参した天福式において創教者が天福聖塩を伝授したが、行事を主管する創教者の心気は非常に不愉快なものであり、既存の統一教会の行事と比べて非常に不自然な行事であった。
天福聖塩を伝授する過程で、創教者は激怒して行事の手順を突然、変えてしまった。文亨進や李妍雅をはじめ、黄善祚や梁昌植などの幹部が途方に暮れる状況を演出し、他宗教の指導者もうろたえた[2]。特に天福灯点灯儀式は、今まで統一教会の伝統にはなかった新しい試みであった。特異なことに2012年1月24日には、創教者夫妻の巨大な像を作り1トントラックに積み込んで、ソウル光化門広場を出発して市庁前を経て崇礼門まで1.8㎞区間を統一教会の信仰者が市街行進した。
天福祝祭は文亨進が心霊治癒礼拝と天福式などの儀礼を新しく取り入れ、それなりに自信を得たことから企画した行事と見られる。二度の行事で消えはしたが、統一教会の儀礼を祝祭形式で大衆化させようとした肯定的側面もあった。しかし、文亨進が主導した儀礼は、統一教会の伝統的情緒とはあまりにも異なり、自然に統一教会文化として受け入れられるのは容易ではなかったであろう。
異質な宗教的情緒に拒否感を現わすのが、宗教現象に対する宗教人の本能的態度である。2009年10月に文亨進が教団名を「世界平和統一家庭連合」から「統一教」に変更した時も、信仰者の態度は似ていた。儀礼や教団名は宗教的アイデンティティを代表するため、それに相応しい神話的事件や手続きなしに一方的に変わると必ず混乱が起こる。宗教的伝統の中における「解釈」を通じた合理化が必要なのもこういう理由の故である[3]。文亨進は教団名変更や新しい儀礼導入に創教者の意思が反映されていると宣伝したが、当時は創教者のカリスマが崩壊し、統一教会の伝統に逆行する文亨進の宗教的実験が創教者の権威によって合理化されるには既に難しい状況であった。特に、天福祝祭の市街行進は創教者の神格化に焦点を合わせたものと見られる。統一教会の宗教伝統を田舎の露店の屋台にでも並べられる見世物レベルに転落させてしまった。無表情な参加者の顔から信仰的アイデンティティに対する自負心は見られなかった。
文亨進は新たに考案した儀礼を通じて、自分が理解する統一教会のアイデンティティを語っている。しかし、創教者と統一教会人が60年余りにわたり築いてきたアイデンティティと儀礼の原型は、文亨進の儀礼の中には見受けられず、結果的に彼は自分の宗教性に頼り統一教会の伝統を歪曲することによって、統一教会のアイデンティティに混沌をもたらした。
文亨進は、自分の主観的な体験と知識で統一教会の伝統的な象徴と儀礼を、時には仏教式に、時にはカトリック式に、時にはプロテスタント式に変える実験をした。文亨進は宗教儀礼、特に新宗教儀礼が持つ特性を全く考慮しないまま、統一教会の歴史と伝統を無視した。創教者のアイデンティティと違う新しい「統一教会」を創って私有化しようとしたという批判を避けるのは難しいようである。彼は外見上は、多くの宗教の礼拝方式や文化を受容しているように見えるが、これはその宗教に対する欠礼である。統一教会の世界会長としての主体性が失われた態度であった。結局、文亨進の「統一教」は、創教者や統一教会人が受難の歴史を克服して導いて来た「統一教会」とは違う宗教であった[4]。
[1] 『統一世界』2011.1.Vol.475, 39頁.
[2] 2012.1.24.天福式の映像, https://youtu.be/nh-gwvR-U28.
[3] 創教者が世界基督教統一神霊協会から世界平和統一家庭連合に宗教的アイデンティティの変化を宣布した時に、大部分の統一教会人はその摂理的変化の発展過程と当為性を理解し認めた。理由はその変化と宣布が統一教会が約束した一貫した摂理発展過程の一部分であったからであった。ところが統一教会の信仰者は、文亨進が伝統と教理に立脚した特別な宗教的説明や合理化もなく「世界平和統一家庭連合」から「統一教」という新約摂理次元の宗派的集団に還元させる過程を見守らなければならなかった。彼らが「家庭連合」から「統一教」に還元される状況に対して疑問を提起したり抗議することができなかったのは、変化を試みた主体が創教者の直系子女である文亨進であったからであった。結局、統一教会の伝統を変えようとする文亨進の試みは、創教者を神様の実体と信じ崇拝の対象としてしまい、甚だしくは統一教会の伝統とは距離の遠い聖霊治癒礼拝や七死復活精誠、ひいては崇拝の為の創教者の像を製作した。このような変化は統一教会人に感動を与えることができなかったものと思われる。この儀礼は統一教会人の宗教的情緒と距離が遠く、神話的物語が不在だったので、結局、統一教会とは無関係な儀礼として現われたからである。
[4]「宗教が行われているのを見ればよく分かるように、儀礼が宗教を構成する。大部分の宗教的行為と儀礼において、儀礼は単なる宗教の一部ではなく宗教そのものである。言い換えると、宗教はそれに相応しい儀礼行為から構成されている。宗教的信仰は儀礼の効果と価値に対する信仰である。そして、神秘的な神学を別個にする場合、神学は儀礼が行われるべき理由に対する説明である」Raglan, The original of Religion.London (Watts, 1949)p.47.アントニー・ウォーラス著/キム・ジョンソク訳,『宗教人類学』(図書出版アウネ,2011), 119-120頁から再引用。